第17回 国境なき食品営業マン(久保田 之彦)

 

 

久保田之彦
昭和44年(1969年)インドシナ語学科(タイ語)卒業

1.はじめに


6a0148c7d6bc93970c017c335b7f38970b昭和44年大学紛争の吹き荒れる中、卒業も6月になり、7月
1日たった一人の入社式から明治乳業生活42年間が始まった。まだ国際部門も小規模で、外語の先輩は一人だけだった。まさかその後、世界60ヵ国に出張し、主に新規事業、新規市場開拓に一隅を照らすことが、できたことは、幸せであった。その点、機会を与えてくれた会社に深く感謝している。

その間、危ない目にも会った。パリの乳業関係国際会議出席し、モンマルトルのオ・ラパン・アジルとかいうシャンソニエと洒落こんだ、帰りの坂道でひったくりに遭遇し、階段を転がり落ち、無残な顔にさせられたり、タイでは、華僑系客先とブランディーのストレートの馬鹿な乾杯を繰り返し、急性アルコール中毒になり、気を失ったり、またパキスタンでは、痛風の発作を経験した。ドクターから、goutと言われてもわからず、ホテルで辞書で痛風と知ったが、何でもいいから、この巨象も倒すといわれている激痛を何とかしてくれと、お願いしたものだ。またそうエチオピアで、丁度革命があり空港閉鎖され、立ち往生したときは、場所が場所だけに、また携帯とかメールとか何もない時で、サウジアラビアに無事脱出したときの、安堵感は今でも忘れない。

 

2.第一期:育児用粉ミルク海外展開
最初の30年間は、育児用粉ミルクの海外展開に従事したが、本社に籍を置きながら一年のうち、3か月から6か月複数の市場への出張を繰り返した。妻もその間、留守を守り、両親の面倒みてくれて、感謝の他ない。

政治経済社会的カントリーリスクがあるが、まあまあ勘弁してくれとばかりに、徹底的にいじめられたというか、鍛えられた。大きなことだけでも、ドルニクソンショック、サイゴン陥落、円高による国産体制の限界、アジア危機、WHO広告普及活動規制、各国価格統制、知財紛争、。。。。こちらの常識は、あちらの非常識、逆もある。いくら社会性の高い育児用粉ミルクとは言え、サイゴン陥落とか、国家の体制に変化があれば、どんなに商品力、ブランド力があっても、国家統制により、輸入禁止、国家入札への変更という重大な事態に陥る。朝 目が覚めたら市場がゼロになっていたということだ。拠点集中か、リスク分散か、選択を何度も求められた。拠点市場集中をベースに、新規市場開拓もすべきと判断した。リスク分散という意義だけでなく、粉ミルクをブランドの先兵として位置付け、“次”の商品展開の受け皿市場として、ブランドの種まきとポジショニングした。

 

3.第一期:育児用粉ミルク新規市場開拓
拠点市場としてタイ、台湾を軸に展開したが、新規市場開拓として、商社からの情報も重視したが、それ以上に、現場接触を主導し、広角度から分析した。インターネットもない時代なので、自分で、現場に行き、広範囲の接触(厚生省、病院、地域保健局、薬局、患者)を密にし、食文化、どこに栄養的欠陥があるのかを探り、市場開拓の三点セットである“市場力market”“法規制regulations”“事業提携先partnership”をベースに進めた。机上だけでなく、現場を動くと、見えないものが、見えてくる。

私の信条である“Every cloud has a silver lining”が教える、どんな難題難問でも、道がある、必ず、攻めるところが、見えてくるものである。そのsilver liningをSWOT分析して、事業として、すべき規模かどうか、評価判定すれば良いと考えた。ロシアはモスクワへ攻めるのでなく、シベリアから攻められないか、太平洋でなく、日本海をハブ拠点にしたらどうか、とか、仲間と議論したものだ。

新規市場としてドミニカ共和国向けに、初めて粉ミルクが太平洋をわたり、パナマ運河を通過したとき、涙がこぼれた。

 

4.第一期:育児用粉ミルク拠点市場強化
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拠点市場は、アジアであり、欧米の競合先である、ネッスル、ワイス社は先行進出30年、差をつけられていた。WHO規制といい、粉ミルクの広告普及活動規制が、厳格であり、このミルク戦争で、差を埋めるには、商品力をベースに、現場発信力を高めて行く必要がある。同じことをしていたら、30年は縮まらない。キーワードは“情報発信基地の組織化”である。

タイでは、現地プロパーと、バンに乗り、ほぼ全県を走破した。昼間は、病院でドクター、婦長さん、看護婦さんに挨拶、detailingして行く、夜は、流通客先である華僑卸、有力小売への挨拶まわりである。私と英語を話したいと思われる客先に対しては、英語で対応する、英語がだめだという客先にはタイ語で対応。そう私は、客先には、必ず名前で呼んだ、忘れないように、手の平に名前を書き対応した。

スパンブリという県があるが、忘れられない思い出がある。夜、問屋さんと酒を、何故か皆さんブランディー、それもストレートがお好きで、ごちそうになった。止せばいいのに、乾杯乾杯で、調子に乗りすぎて急性アルコール中毒で、私は、気を失った。問屋さんは、これは一大事と、県立病院に、担ぎ込み、知らせを受けた旧知の産婦人科、小児科のドクターまでも、ぞくぞく駆けつけてくれたとのこと。ドクターが、急きょ注射をしたとたん、私は気を失っていたが、“チェップチェップ!(タイ語で痛い痛い)”とうめいたという。

気を失っているのに、タイ語を話すこの日本人は、大したもんだと、一夜にして有名になり、その後の商売もスムーズに行った、こんな現場体験の繰り返しであった。

またタイと言えば、ボーダービジネスに、悩まされた。四海に囲まれている日本と違い、東西南北 国境に接している。国境があってなきが如くの世界である。販売的には、タイの地図が、太ったような気になるが、国境を接している国同士は、言語も商慣習も、輸入制度も、成分規制も通貨も、価格も、すべて違う。販売上のトラブル多く、頭痛の種だった。

 

5.第二期:豪州長期出張 高齢者向け高タンパク粉ミルク市場開拓
タイ、中国広州駐在を含め、30年間赤ちゃんミルクを担当してきたが、今度は何とその経験を生かして、豪州で、高齢者向けにミルクを売る立ち上げの命令がでた。53歳の時であった。豪州の原料・乳原料調達拠点の位置付けは、認識していたが、初めて市場としての豪州を立ち上げろということだ。たった2千万程度の総人口、広大な国土、出張で何度か経験ある地域だったが、どう攻めて行けばよいか、前知識はほとんどない。商社も介在しない、すべて自分で動く、動くと言っても、どこへいけば良いのか、見当もつかない。

ましてやここは、英語圏。東南アジア英語には、多少の自信があっても、ここのオージー英語は、当初よくわからなかった。もっとはっきりしゃべって欲しいとお願いしても、“大口開けるとハエが入ってくるよ”と、笑いながらぼそぼそ言う。でも、始めないことには、始まらない。オージーは、真剣に困った人には、実に親切に接してくれる。何度救われたことか。実にすばらしい皆さんだ。

日本とも、東南アジアとも、ここ豪州は、食生活、多民族国家、商習慣、商流、物流すべて違う。

 基本動作に戻り、自分で厚生省、地域保健局、栄養士協会、医師協会、病院、統計局、老人介護施設、食系薬系流通チャネル、スーパーマーケット、食品マーケットと、ここは豪州、豪に(郷)行っては、豪(郷)に従えであり、決してLittle Tokyoは作るまいとの信念で、豪州人の仲間と基礎固め現場接触して行く。毎日独自取材を重ねるしかない。Meals on the Wheels(MOW)という、在宅高齢者向け配食サービス事業がある、車の助手席に乗せてもらい、一軒一軒配る、何が好きか、何が嫌いか、何が不満か、どこに参入チャンスがあるか、高齢者とか、MOWの人々から、生の情報が、入る。インターネットでは得られない皮膚感覚で何かが見えてくる。こうして現場に触れて行くと、広大な国土だが、南豪州を含めた東部4州の人口集中度は70%を超す。経済民度も高い。一方、魚文化は低く、野菜嫌いも、見えてきた、つまり食生活栄養面での弱さが見えてくる。商品の差別的価値を、どういう切り口で、どう、どこへ攻めて行くか、見えてくる。東部4州への人口が総人口の70%以上という事実は、販売network作り、物流体制作りからも、効率が良い、多国籍国家だから、有力企業は、test marketとして、豪州を重要視している点も、見えてきた。即ち、跳躍台(jumping
board)として、豪州での評価次第で、世界へ水平展開するという戦略的位置付けである。

中国人向けの科学ラジオ番組にも、出演して、ブランド知名度UPに、努力した。そのラジオ番組は生放送で聴取者との質疑応答ががあり、一年分の冷や汗がでたのも、今ではいい思い出である。

そう、地域老人大学という文化教室に招かれ、講演した。その時、77歳のスコットランド出身の夫人が、立ち上がり“私は今、日本語を勉強している、二年後は今度は、中国語に挑戦よ。Never too lateよ”と言われた。この時の感動は、私のmemory bankに永久保存である。

 

6.おわりに
私にとっては市場としては、未知である豪州での2年半の、販売立ち上げ経験は、交渉とは“全人格交渉”であることを、あらためて認識させてくれました。

常に、好奇心を持ち、個の発信力を高めて行かねば、相手にしてくれません。商談とは、sport、芸術、文化、政治談議をしてから、やっと始まります。新聞買い、政治面社会面sport記事(特にオージーフットボール、クリケット)を読んで、車中で豪州人仲間とウオームアップしてから商談に臨む毎日。

若きとき、何かで読んだのに、「VSOPで行け、20代variety何でも嫌がらないで、与えられた仕事やれ、好奇心も忘れるな、30代speciality 他人には、負けたくない分野をもて 40代originality 50代 personalityと自身の深みと魅力を進化していけ、どうするかは、自分で考えろ! その進化の積み重ねが、あればお前のチームのメンバーはお前に付いて行く」。裾野は広くなければ、高い山は築けないとも教えられました。好奇心だけは、一人前に持ち、hesitationは、なくすように努めました。聞くは、一時の恥と思います。

既成概念または色眼鏡を外して現場を眺めると、例えば食品マーケット、スーパーマーケット、食堂という現場から、総人口概念の他に、“胃袋人口換算”したらすごい市場だとか、複眼的思考が養われます。特に中国広州に駐在したとき、感じたものです。

会社生活の最後の6年間は、また別の新規6a0148c7d6bc93970c017d3d8a179a970c
ビジネスを求め、何度もアメリカフランスを行く機会があり、時間を見つけて、美術館めぐり、特にミレーの“晩鐘”は、私の家族の理想形、バルビゾンの地を踏み、ミレーのアトリエに入らせてもらったときは、心が震えたものです。触れるだけで、興味を持つだけで、自分の裾野が、幅が、ちょっと広くなった気がするんです。フランスでは、小学校からディベイトの教育、訓練と聞きました。個の発信力を高めるには、今からでも裾野、幅を広げておきましょう。
何事も、Never too lateですから。

 

—-(略歴)—–
神奈川県茅ケ崎生まれ。神奈川県立小田原高校卒業、東京外国語大学1969年卒業
明治乳業入社2011年まで42年間勤務。 勤務地:本社 海外駐在(タイ2回中国広州)海外長期出張(豪州メルボルン) NNA豪州(経済情報配信)の依頼により、豪州奮闘記出稿(2001年8月28日号)。
2011年退社 現在 国際食品ビジネスコンサルタント:ニッポンの食文化のグローバル展開・グローバル化人材育成教育の分野で微力を尽くしたいと考えています。2012年10月
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-本人への連絡を希望される学生、同窓生の方は、東京外語会平成の会(heiseinokai@gaigokai.or.jp)宛にお問い合わせ下さい。 

 

第16回 外語大生の皆さん、僭越ながら (岡本 卓)

 岡本 卓
昭和46(1971)年インドシナ語学科(ベトナム語)卒業

原点はベトナム戦争

人口が千人にも満たないような京都府の片6a0148c7d6bc93970c017d3cc3440d970c
田舎の村で生まれ育った私の家にテレビが来たのは小学校3~4年の頃でした。野山を駆け巡って遊んでばかりいた少年にとって、テレビが伝えるベトナム戦争は衝撃でした。なぜ、豊かなアメリカは貧しいアジアの小さな国で戦争をするのか?アメリカは日本やドイツに勝った強い国なのになぜ、勝てないのか?ベトナムって、そんなに強い国なのか?・・・疑問だらけの少年時代でした。

 高校に入学し、大学進学を考える頃になりましたが、田舎の高校には十分な情報がありませんでした。唯一の情報源は旺文社の月刊誌でした。ページを繰ると東京外語大でベトナム語を教えていることを知りました。大阪や神戸の外語大を見てもベトナム語はありませんでした。テレビで流れるベトナム戦争の悲劇と大学が重なり、私は東京外語大一本に絞って受験しました。

 

大学時代
 

6a0148c7d6bc93970c017ee438a48a970d順調にスタートした大学生活は2年目の夏休み明けから全共闘運動で混乱を極めました。大学にも改めるべき点があると感じていましたので、初めは全共闘の主張に耳を傾けましたが、途中から中国の紅衛兵のように「自己否定」とか「造反有理」といったスローガンが氾濫するようになりました。疑問を感じた私は、いわゆるノンセクトの立場で他学科の学生とともに全共闘運動に反対するようになり、全学ストライキを解除するための学生大会を開く準備に取り組みました。紛争はおよそ1年後に収拾しましたが、余波は残り、結局私たちの学年も卒業式を行えませんでした。ベトナム語の習得を含め、大学生らしい勉強は出来ませんでしたが、得がたい体験でした。

(写真:1968年秋から全共闘によってバリケードされた東外大が、翌69年3月に機動隊が学内に導入されて封鎖が解除された時のNHKニュースの画面を著者が撮影したもの)

 また、当時は3年生の後半に入れば就職先が内定する友人が出始め、私も自分の将来を考えなければならなくなりました。自分の性格を思うと実業界は無理と判断してマスコミを目指すことを決めました。終わりそうにないベトナム戦争に加え、世界中に衝撃を与えたビアフラの悲劇も大きく影響しました。当時、朝日、毎日、読売各紙と共同通信、それにNHKの就職試験は、今では信じられないことですが、試験日が全く同じ日でした。つまり、これらのうち1社しか受けられなかったのです。私は、NHKに決め、他の業界や企業は一切受験しませんでした。大学を選んだ時と同様、1本に絞り込むという困った性格のままでした。

 

トロッコ記者のスタートとベトナム
 NHKに採用された私は横浜に配属されました。そして、警察担当として2年目に入っていた1972年の8月、私にベトナムが蘇りました。当時の飛鳥田一雄横浜市長が支持労組と一緒になってベトナム戦争に反対する行動を起こしたのです。アメリカ軍は神奈川県相模原にある補給廠で修理したM48型戦車をベトナムの戦地に送るため5台の大型トレーラーに載せて横浜港に向かわせていたのですが、飛鳥田市長は市の条例を盾にして国道のど真ん中でトレーラーを通行止めにしたのです。トレーラーは50時間も立ち往生し、私は“戦車番”として夜中もずうっと戦車を見張るよう指示されました。結局、戦車を積んだままのトレーラーは相模原に引き揚げ、飛鳥田市長の勝利に終わりましたが、私の心の中は不完全燃焼でした。

 その頃、ベトナム戦争は北ベトナム軍やベトコンの攻勢が続き、南ベトナムを脱出した“ボートピープル”が日本各地の港に上陸するようになっていました。私は「今こそベトナムに行かなければ、何のために外語大に入学したのか分からない」と思い、上司にベトナムに行かせて欲しいと申し出ました。殺人事件のニュース原稿さえ満足に書けない2年生を行かせるわけにはいかない、と断固拒否されましたが、私も断固退かず、結局僅か10日間でしたが、ベトナムに行かせて貰い「戦争」をわが身で直接体験できました。しかし、わがベトナム語はまったく通じませんでした。

 サイゴン支局長は私より十数年も先輩でした。戦場取材に出かけない日には毎日、日本にいる夫人に手紙を書いていました。支局長曰く『「遺書」だよ』。

 また、「地雷を踏んだらサヨウナラ」の一言を残して非業の死を遂げたフリーの一ノ瀬泰造カメラマンはその頃、NHKの支局にもちょくちょく顔を出していました。真っ黒に日焼けした戦争カメラマンの精悍な素顔に接し、身の引き締まる思いでした。

 

政治部“難民記者”として
 横浜で警察を担当した6年が過ぎ、1977年に定期異動で報道局政治部に移りました。ベトナム戦争は2年前に終結し、福田赳夫首相に大平正芳自民党幹事長の“大福”コンビの時代でした。

 私は首相官邸や外務省の他に、私に政策を勉強させようという上司の考えからでしょう、健康保険や年金制度を扱う厚生省や大蔵省も担当しました。字数の関係でここでは1979年から80年にかけて担当した外務省での経験を紹介します。

 その頃、韓国のパク・チョンヒ(朴正熙)大統領が

6a0148c7d6bc93970c017d3cc348e4970c暗殺され、インドシナ半島では中越戦争とカンボジア内戦、ソ連のアフガン侵攻が続きました。このうちカンボジア内戦で日本政府は後に国連難民高等弁務官になる緒方貞子さんを団長にしたミッションを現地に派遣しました。私は日本のテレビ記者としてただ一人、緒方ミッションに同行して混乱を極めるカンボジア情勢を取材しました。タイとカンボジアの国境地帯は飢えと病に苦しむカンボジア難民であふれ、遠くヨーロッパからのボランティアが活動していましたが、日本人のボランティアはゼロ。すかさずヨーロッパからのボランティアは、私が日本人のレポーターであることを見抜き『同じアジアの国なのに、なぜ救援に駆けつける日本人はいないのか!』と言い寄って来ました。

 食べるものもなく原野を彷徨う難民の子どもたちは緑色の鼻水を垂らして咳をして、手足は針金のように細く、まだ幼かった二人のわが子の姿と二重写しになった私の目は潤んできました。

 ヨーロッパからのボランティアの声とともに難民の悲劇を現地からレポートしました。後年、「カンボジアでのボランティア活動に参加したきっかけはNHKのレポートだった」という人の声を聞いた時、「記者をやっていてよかった!」と実感したものでした。

 同じ年、私はソ連侵攻でパキスタン国境付近にあふれ出たアフガン難民も現地で取材、いつしか政治記者なのに“難民記者”とも呼ばれるようになっていました。

 

グエン・コ・タクベトナム外相の思い出
 政治記者か“難民記者”か分からないような時代を過ごしたあと、同じ報道局の外信部(現国際部)に移籍しました。カンボジア紛争は依然続いており、日本に来る関係各国の要人たちにインタビューするなど、取材は続けていました。悪名が高かったポルポト政権の幹部も度々来日し、私がインタビューした要人の中にはキュー・サムファン首相やイエン・サリ副首相夫妻なども含まれていました。

 その後、私は海外勤務になり、テヘラン、ジャカルタ、シドニー、バンコクの支局長を歴任しました。このうちバンコク時代の思い出を紹介します。

 私がシドニーからバンコクに転任したのは1990年でした。当時のベトナムは戦争の深い傷跡も癒え始め、日本のマスコミ各社はベトナム政府との間でハノイに支局を開設する交渉に乗り出していました。私も前任のバンコク支局長から交渉を引き継ぎました。

 バンコクからハノイにまるで“通う”ようにして交渉していたある日、ベトナム外務省で担当局長と話していましたら、局長室の外をグエン・コ・タク外相が通りかかり、私の姿に目を止めました。実は、タク外相には東京で2~3度インタビューしたことがあったのです。その時のインタビューはなんとかベトナム語で質問したのですが、ヒアリングが全く出来ず、外語大の川口健一教授やNHK国際局のベトナム語専門家(もちろん外語大出身)に急遽、来援を求めて急場を凌いだことは汗顔の至りでした・・・。

 そのタク外相が局長室に入ってくるなり私に「何をしているの?」と言うのです。私を覚えてくれていたことにビックリしたのですが、同時に支局を開きたいというNHKの意向が外相に届いていなかったことにガックリしたのは言うまでもありません。私が改めてNHKの考えを、今度は英語で説明するのをニコニコ顔で聞いてくれました。

 この時はそのままタク外相と別れましたが、バンコ

6a0148c7d6bc93970c017c3294c2ec970bクに戻って暫くすると、ベトナム外務省から渋谷のNHKにハノイ支局開設の許可が届きました。NHKより一足先に共同通信がハノイ支局を開いていましたが、新聞社はまだどの社も開けておらず、NHKはテレビ局としては世界で第一号でした。

 因みに、共同通信の初代ハノイ支局長は辺見秀逸さん(後の作家・辺見庸)で、私とは横浜で警察取材の合間に花札に興じた仲でした。ハノイに駐在していた辺見さんとは全く偶然にジャカルタのすし店で再会したこともあり、今では懐かしい人生のひとこまとして心に残っています。
(写真:ベトナム・ハノイ支局オープニングパーティ 1991年)

 

現役の外語大生の皆さん、僭越ながら
 今の大学生は静かです。おとなしいです。6a0148c7d6bc93970c017c3294c83c970b
政治も経済も閉塞感が漂い、本来なら人生においてあらゆる可能性を秘め、最も華々しい活動期にあるはずの大学生は窒息状態にあるのかもしれません。団塊の世代の私たちの時代と比べて、今の大学生は“可哀想”でもあります。
(写真:ニュース7の編責の頃。1997年)

 

 こんなことを言うと、現役の皆さんからは

「我々こそ、団塊の世代の犠牲者だ!」

「先輩たちが“食い散らかした”後しか、我々には残っていないのだ!」

 

といった罵声が聞こえてきそうです。

 

 そんな時代を生きる現役の皆さんに僭越ながら、また反省を込めながら言葉を贈りたいと思います。

 

より多く生きよ!~多くの人に会い、経験を積もう~

 怒れ!~世の中の不条理に目をそらさず、鮮明に対処しよう~

 

念ずれば花開く!~でも、棚から落ちるぼた餅の真下に行く努力だけはしよう~



----(略歴)-----

1948年、京都府丹波町(現京丹波町)生まれ。1967年、京都府立須知(しゅうち)高等学校卒業。同年、東京外語大インドシナ語学科(ベトナム語)入学、1971年同卒業。同年4月、NHK入局。横浜放送局を振り出しに、報道局政治部、外信部(現国際部)、海外支局(テヘラン、ジャカルタ、シドニー、バンコク)駐在。国際部担当部長、ニュース7編責、報道局記者主幹等を経て、2005年、NHKを定年退職。現在、十文字学園女子大学メディアコミュニケーション学科教授、日本女子大学講師(非常勤)。
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第15回 団塊の世代も頑張っています (日溪 哲人)

 

日溪哲人(ひたに てつと)
昭和47年(1972年)インドシナ科卒

 

フランス語との出会い
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1968年外語大のインドシナ科(タイ語専攻)に入学
したものの、一年生の夏休み明けから学生運動のストで以後一年半以上授業は無く、その間数ヶ月間アテネフランセでフランス語を習ったのがフランス語との出会いでした。当時、まだ前置詞もろくに判らない段階からアルベール・カミュの『異邦人』を単語を一つ一つ辞書を引いて読んだのを覚えています。結局はこのやり方がその言葉の仕組みを覚える一番の近道だったと思います。その後、四年生の夏に、パリのアリアンス・フランセーズでニヶ月間夏期講習を受け、最後の一ヶ月間欧州各地を単身で旅行できたことは、私にとって何ものにも優る良い経験・財産になったと自負しています。

 

OECD保険委員会
東京海上では海上保険(貿易貨物保険)と海外部門に在籍していました。希望がかなって(会社には常に希望を伝えることが肝要です)パリに駐在していた時、大蔵省(当時)の委嘱を受けてパリに本部のあるOECD(経済開発協力機構)の保険委員会の日本代表を勤めたり、ジュネーブに本部のある国連のGATT(貿易と関税に関する一般協定:現在はWTOに移行)の保険会議に出席したこともあります。一番の思い出は、OECDの同時通訳(英仏語)の耳に当てるイヤホンがいつも調子が悪く痛くてたまらなかったことです。

 

パリで再就職
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東京海上を繰り上げ停年退職後は、パリ郊外にある保険ブローカー会社に勤務しました。保険ブローカーとは、保険契約者の代理人として、然るべき保険会社に保険契約を手配する人で、欧米では企業の保険は総てブローカーが扱います。私は社員1500人の中で唯一の日本人でしたが、担当地域はフランスとイタリアとスペインの三カ国で、いずれも食事やワインが美味しいところで、東京海上の職場の元同僚からは羨ましがられたものでした。

大手企業で海外勤務を経験した人でも、退職後に海外の非日系の現地企業に再就職する人はあまり多くないようです。東京海上の場合でも、海外関連子会社に再就職する人は数人いましたが、完全な現地企業に再就職した人は他に殆どいなかったように思います。私がそれを決意したのはやはり再度新たなことにチャレンジしたい気持ちがあったからですが、決めるに際しては勿論同行する家族の理解がなければ実現できません。私の場合、幸いそれ以前に幾つもの海外駐在を経験しておりパリは二度目だったことから、家内が、「まあ、何とかなるのでは」と賛成してくれたことが迷っていた私の背中を押してくれました。家内には今でも感謝しています。

 

東京大学でフランス文学を
ある国立大学の先生曰く。「今後団塊世代の人たちが続々退職するが、彼らはまだ元気で知的好奇心もあり、時間は勿論、経済的にも少しはゆとりがあるので、大学に戻って勉強したいと考える人が増える」と。私の場合はそうした事情に加え、ストもあって外語大で満足な勉強をしていないという大きな後悔(?)がトラウマのようにあったことも、改めて大学で勉強しようと考えた理由の一つでした。

東大では自分の子供よりもさらに一回り若い人たちと一緒に授業に出ています。授業の多くは演習形式で予習が必須で大変ですが、欠席ゼロで頑張っています。現在は四年生で、エミール・ゾラの『ルーゴン・マッカール叢書』の中から三つの作品について卒論を書いている最中です。

東大の文学部には私と同じような停年退職者が何人か在籍しています。そして皆さんに共通するのは、いずれも大変熱心だと言うことです。何故かって?それは勿論「新たな知の世界への挑戦」が楽しいからなのです。フランス文学は無限にあります。卒業後も元気が続く限りフランス文学に接して行こうと今から楽しみです。意欲だけはまだまだ若い人たちに負けません。                  

 

 

 —-(略歴)————————————————–
山口県出身。1972年東京外国語大学インドシナ科卒業。同年東京海上火災保険(株)に入社。以後、大阪支店、東京本社、パリ、ロンドン、ハノイ等での勤務・駐在を経て2003年に繰り上げ定年退職。その後フランスで保険ブローカー会社に四年間勤務。現在、東京大学文学部フランス語フランス文学専修課程(四年生)に在学中。都内在住。
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みんなのヒストリー 記事作成のお願い

 

みんなのヒストリーに記事を書いて頂ける方向けの説明文章です。できるだけ多くの、様々な仕事の東外大OB・OG、現役学生、関係者の方々に書いて頂きたく、よろしくお願いします!

 

■平成の会の紹介

平成の会は東京外国語大学の同窓会組織である東京外語会の一つの組織です。平成年度に卒業したOB・OGが中心となって、同窓会活動を盛り上げていこうという趣旨から、「平成の会」という名称をつけています。 

卒業生、在校生が大学という絆を軸にして、世代を超えたコミュニケーションを行う手助けが出来ればと考えています。様々な企画、イベントを通じて、大学の関係者が交流できる場を作っていきます。

 

■まずは「平成の会」に登録して下さい。

<Facebook を通じて平成の会に登録する方法>

Facebookに未登録の方は是非この機会に登録して下さい(登録は無料で簡単です)Facebookに登録済の方は「東京外語会 平成の会」と検索するか、以下のURLにアクセスして下さい。

http://www.facebook.com/heiseigaigo

「いいね!」ボタンを押すと、今後平成の会からFacebookを通じて平成の会の活動の情報を受け取ることができます。

 

twitterアカウントもありますので、そちらも是非登録して下さい。

https://twitter.com/heisei_gaigo

 

■「みんなのヒストリー」に込められた意味

現在は同窓生の誰がどこで何をしているのかを、自分の知り合いの狭い世界以外に知る手段がありません。この記事を通じて卒業生の卒業後の軌跡を、同窓生に知ってもらい、同窓生同士の繋がりのきっかけを作りたいと思います。どういう人がどこでどういう経験をしたのか、そういう情報をストックすることで、学生が卒業生にコンタクトしたり、卒業生同士の関係作りのきっかけにできれば幸いです。

記事はすべて語科別、卒業年度別などに保存しておきますので、外語大関係者の詳細なデータベースになります。このデータベースを100人、1000人、それ以上と広げていくことで外語大関係者の間の繋がり作りに貢献します。

東外大の関係者(OB・OG、在校生、職員など)であれば全員が対象になります。特別に何か大きなことを成し遂げたということでなくても、在学中、卒業後のその人の軌跡はきっと他の同窓生にとって学ぶところがあるはずですし、人と人とが繋がるきっかけになると思っています。

 

■記事作成上のガイドライン

・本人の卒業後の軌跡の記述を中心とした自己紹介文章をお願いします。

・在校生については留学体験や、就職活動体験、クラブ活動体験などでもOKです。

客観的事実(仕事内容)と同時に、その時々でどう考え、悩み、どう行動したかという視点を入れていただけると読み手にとって非常に参考になります

・著書がある場合は著書の紹介をして頂いてもOKです。

・段落:段落を分ける際は、できれば小見出しを付けて下さい。

・文字数:800~1500文字程度でお願いします。

・写真:関連する写真をできれば3枚程度、最低でも1枚付けて下さい。

・略歴:記事の最後に300文字程度の略歴を入れて下さい。

・ファイル形式:ワード文章でもテキスト形式でも結構です。

 

■掲載場所

・みんなのヒストリー:http://gaigokai.typepad.jp/heiseinokai/

・記事が掲載されたら、facebook,
twitterでも紹介します。

 

■記事の送付先

・記事ができましたら、柴田(S平7卒)宛にメールでお送り下さい (heiseinokai@gaigokai.or.jp)

・写真もメールに添付する形で送って下さい。

・記事にする際にフォーマットを整えるために多少編集させて頂く場合があります。

 

■その他

・記事を作成頂く方は、外語会の会員でなくても結構です(外語会の会員になって頂ければ尚嬉しいですが)。また、外語大関係者である(他大学出身の)教職員の方も大歓迎です。

 

第14回 勇気をもって行動すれば何かが起こる (森 俊)

森 俊
平成7年(1995年)ドイツ語学科卒業

学生時代
5年間の学生生活は部活(バレー部)中心で、単位を取るための本当にぎりぎりの勉強しかしませんでした。後悔はしていませんが、反省はしています。

今でも付き合いが続く、先輩後輩を含め「同じ目標に向かって努力した仲間」は何にも代えがたい財産ですし、キャプテンとして、小さいながらも「組織」がどうやったらうまくいくのか、悩み、考え、自分なりに努力したことは、間違いなく社会にでてからも通じる、有意義な経験でした。

 

JR東日本に入社~翻訳会社へ転職 6a0148c7d6bc93970c017616aa73cc970c

JR時代には、駅ビル開発を担当し、2002年開業の上野駅の商業施設(アトレ)のプランニングやテナントとの出店交渉、広告宣伝などの責任ある仕事を任されました。

JRならでは大規模案件で、非常にハードではありましたが、たくさんの経験を積み、幅広い知識や自信を得ることができました。

またJRの開発案件の圧倒的な影響力の大きさに、色々なことを考えるようになりました。

中国語学科卒の妻が翻訳を長年続けていた関係で、翻訳会社(中国語、韓国語専門)の社長と意気投合し、小さい会社にしかできないこともあると考え、転職を決意しました。

自分で翻訳をするわけではありませんが勉強もたくさんしましたし、毎日中国語、韓国語に接し、営業面で必要な知識だけでなく、翻訳者さんとのやり取りなど数多くの経験をつみました。

 

独立-翻訳会社設立
少しずつ方針の違いを感じるようになり、やればなんとかなる、との思いも得ていたので思い切って2010年に独立を決断し、翻訳会社を設立しました。

現在は、価格競争の波に流されないよう、品質面や、その他のサービスとの組み合わせなどにより付加価値をつけるという方針で、本業を育てつつ、少しずつ新しい展開の種を蒔いています。(今後、徐々に言語の幅も増やしていこうと東京外大卒の方に声掛けもしていますので、我こそはという方がいらっしゃればご連絡ください)

すべてのことに自分が責任をもつ大変さはありますが、自分で考えいろんなことに取り組むことは本当にやりがいが感じられます。

 

仕事をするうえで大切にしたいこと(若い皆さんに伝えたいこと)
社会に出て仕事をすることは、選択・決断すること。

幅広い知識があれば、難しい選択・決断をする際に、より正しい方向に舵をとることができます。いつになっても地道な勉強や情報収集は大切です。

また、人と人とのつながりは本当に大事です。そのつながりが思いがけないところで助けになったり、新しい出会いにつながったりします。そしてそのお付き合いは誠実であることが一番大切であると思っています。

それから「チャレンジ」すること。自分でできることしかしなければ成長できません。無茶をするのとは違いますが、自分にできるだろうか、と不安に思うことはあってもチャレンジすることで、自分も成長するし、新しい世界が開けます。

そして目標や夢を持つこと。自分がやりたいこと、大切にしたいことに向って、「勇気をもって」行動し、チャレンジを続ければ、きっといろんなことが成し遂げられるはずです!

 

—-(略歴)————————————————–
平成7年(1995年)ドイツ語学科卒業後、JR東日本に入社、駅ビル運営会社に出向し駅ビルの運営、開発を担当、2002年、上野駅ビル(アトレ)開業にあたりゾーンニングや収支想定などのプランニング、テナント出店交渉、広告宣伝などを任される。2003年に翻訳会社に転職後、2010年に独立し、翻訳会社㈱アレクシス設立(2012年7月現在)。
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第13回 外資系メーカーを退職後、整体院経営に(百瀬ふみえ)

 

百瀬 ふみえ
平成2年(1990年)インド・パーキスターン語学科卒業
(ヒンディー語専攻)

 

大学卒業後ユニリーバへ
越境して入った岩手の県立高校から入学。専攻はヒンディー語です。

人々の生活の分かる日用品や食品の商売に興味があったこと、またアルバイト先のインド料理店で外国人に混じって仕事をすることに慣れてしまったことから、日本企業では勤まらない気がして外資系のユニリーバ・ジャパンに就職しました。バブル期でしたからすんなり内定頂きました。

東京での採用だったが研修後の配属は海外の本社レベルで買収が成立したばかりの別会社リプトン・ジャパンのマーケティング部へ。マーケティング部統合までの半年強を神戸で過ごしました。自分が選んで入ったユニリーバとは企業文化が違い戸惑いましたが、合併吸収というものを吸収する側・される側半々の立場で経験することができました。また、関西初体験だったので生活面でも発見は多かったです。

 

社内結婚で退職~外資系メーカーへ転職でステップアップ 6a0148c7d6bc93970c0167688f8647970b

入社3年で社内結婚し、ユニリーバを退社しました。退社への圧力は一切ありませんでしたが、夫と同じフロアで仕事するのが嫌だったので。たった一ヵ月の専業主婦業ですっかり辛くなり適性のないのを自覚して、半年程シンクタンクや外資系のアパレル等で派遣社員しながら就活し、アメリカのペットフード及び食品メーカーであるピュリナ・ジャパン株式会社のマーケティング部へ猫用缶詰担当のアシスタント・ブランド・マネジャーで再就職しました。

日本での歴史も長いリプトンやユニリーバとは違い、日本企業との提携を解消してわずか5年のピュリナ社で前例もあまりないところから仕事を作っていくのは大変勉強になりました。ユニリーバ時代は少なかった海外とのやり取りも毎日のようにアメリカ、タイのオフィスや工場とやり取りがありました。

 

心身共に限界へ
しかしわずか3カ月で直属の上司がヘッドハンティングされて辞めてしまい、3名いるはずのブランド担当者が(元々欠員があったので)私1人になってしまいました。その後半年間は、営業部、マーケティング部兼務で留守がちの役員と2人で何とか業務を回しました。20代半ばで大きな仕事を任せてもらって大変勉強になりましたが、手が回らず力も足らず失敗も多かったので、迷惑をかけて叱られる日々でした。家庭でも夫はともかく親類や友人達の間で「奥さん」としての自分の評判が下がっていくのがよく分かり当時はそれも気になってしまいました。

半年後に人員が補充された頃から、蓄積した疲労と精神的ストレスからか体調がかなり不安定になり始めました。仕事のミスも増え、存在するだけで辛くなり病院で診てもらうととりあえず自律神経の失調ということで安定剤をもらいました。(当時はうつ病の診断はなかなか出なかったのです。)

それでもキャリアから遠ざかるのが嫌でしばらく我慢して会社へ行き続けました。しかし、日が経つほどに1人で回していた頃のミスや不足が少しずつ発覚して説明を求められるということが増え、精神的な限界を感じて退社を決意しました。

今思えば1人で回していた当時に、本来自分のものではない仕事の責任の所在を明らかにし、整理して優先順位を付けて堂々と仕事をすべきでしたが、そういう知恵と能力がなかったので残念ながら潰されたような形で心身共に疲れ切って会社を去りました。どんな状況でもきちんと仕事を片付けていかないと後で痛い目を見るということを学びました。

 

整体の仕事ならできるかも…

6a0148c7d6bc93970c0176168462f4970cこういった退社の経緯だったので、その後選んだ整体師の仕事は、「やりたい仕事」というより「こんなダメな私でもできるかもしれない仕事」でした。もう会社組織で働くのは無理だと思っていましたし、専業主婦はその前に一カ月でリタイヤしていたので、これしかできるものがないという認識で整体学校へ行き始めました。

再び派遣会社に登録し、ドイツの薬品メーカーの営業部の事務の仕事をしながら、終業後整体学校へ通いました。途中妊娠し、派遣の仕事も整体の勉強も2年程中断しましたが、再び同じ会社から仕事を頂き保育園に子供を預けて学校を卒業しました。

 

保育園の送り迎えをしながら開業へ  6a0148c7d6bc93970c01761684635e970c

整体学校卒業後は、学校附属の整体院で職を得ました。生徒さんを指導しつつクライアントさんに整体の施術をする仕事です。その後、2001年に友人と現在のくるみ整体療術院を開業し現在12年目に入りました。

小さくてもお店の経営で、マーケティングの知識も、業者さんとの付き合い方等も、お金の管理の仕方も役に立ち、短い間ではありましたが為になる経験を得られたと考えております。顧客の皆さんのお話を伺う時も、多くのお仕事では大体の様子が察せられるので企業での経験は貴重です。

開業当初は子供が保育園へ通っており、家族だけではなく同僚や近所のお友達にも助けられながら何とか続けてきたお店ですが、現在は地域でも業界でもある程度存在を認めて頂いており、安定して商売にいそしむことができて嬉しく思っております。

 

—-(略歴)————————————————–
平成2年(1990年)インド・パーキスターン語学科卒業後、ユニリーバに入社。研修後グループ企業のリプトンジャパンのマーケティング部へ出向。1991年部門統合でユニリーバに戻る。1993年退社後、社内結婚。派遣社員で勤めたのち1993年ピュリナジャパン、マーケティング部へ転職。キャットフードのマーケティング全般を担当。1995年退社。その後外資系企業で派遣社員をしながら整体学校へ。途中、出産・育児のため中断。1998年整体学校卒業後、東京療術学院附属の整体院で指導教員を勤めた後、2001年板橋区大山町にくるみ整体療術院を開業。女性二名で共同経営、現在12年目
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第12回 海外へのあこがれから「多文化共生」のとりくみへ (菊池哲佳)

 

菊池哲佳
平成10年(1998年)ドイツ語学科卒業

 

大学時代の挫折

6a0148c7d6bc93970c016768694c47970b高校時代は柔道ばかりやっていて、将来のことを 深く考えることができていませんでした。ただ、海外へのあこがれを漠然と抱いていて、東外大で自分の世界を広げたいと思いました。ドイツ語を選んだのは、英語以外の外国語にも挑戦したかったことと、ヨーロッパへの関心があったからです。とりわけ89年のベルリンの壁崩壊の報道は私のなかで強烈な印象を残しました。

しかしいざ東外大に入ると、ドイツ語はすぐに挫折しました。クラスメイトの語学センスに驚き、「とてもかなわないな」と授業から足が遠のきました。そして、部活動の柔道や音楽、アルバイトばかり熱心になりました。しかし、授業にはまじめではありませんでしたが、読書はジャンルを問わず貪欲に挑みました。

 

海外勤務にあこがれて就職
卒業後は運輸関係の大企業になんとか入社することができました。その会社は世界中にネットワークをもち海外勤務が早くできそうだと期待しました。また、運輸は社会に不可欠な仕事だと思いました。しかし実際に入社すると多忙を極めるなかで自分のキャリアに迷う毎日でした。結局、会社は2年足らずで退職しました。いま思えば職場のみなさんにはお世話になりっぱなしのまま退職し、辛抱が足りなかったかもしれないという気持ちもあります。

母校とのつながり

6a0148c7d6bc93970c0176165e30bf970cその後、2000年に(財)仙台国際交流協 会(SIRA)に入職し、現在に至っています。SIRAでは、外国人住民をはじめとすることばや文化の異なる人々との地域での共生を目指したプログラムの企画・運営に携わっています。具体的には、外国人住民に向けた防災啓発、外国につながる子ども(外国にルーツをもつ子ども)の支援などを行っています。

2011年3月の東日本大震災では、外国人被災者等のために多言語で情報提供をする「仙台市災害多言語支援センター」の運営にあたりましたが、その際には東京外国語大学多言語・多文化教育研究センターに多大な支援をいただきました。多言語・多文化教育研究センターを介して、東外大同窓生や関係者に震災関連情報の翻訳でご協力をいただきました。母校との「つながり」をつくづく感じ、心強い限りでした。これからも地域の「多文化共生」にとりくんでいきたいと思っています。

 

—-(略歴)—–
1998年ドイツ語科卒業。2000年(財)仙台国際交流協会(SIRA)に入職。2009年4月からの一年間は(財)自治体国際化協会(CLAIR)派遣。東京外国語大学多言語・多文化教育研究センターフェロー。(2012年6月現在)
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第11回 珍しい東外大出身商社財務マン (斎藤 勉)

 

斎藤 勉
昭和39年(1964年)イタリア語科卒業

 

はじめに

6a0148c7d6bc93970c017615c9ea1c970c我が国の経済成長は戦後貿易が牽引してきたがその担い手 として商社が中心的役割を果たしてきたことは論を俟たない。

その商社が東外大出身者の国際性を期待し海外の販売の即戦力として重用してきた。

しかし、筆者はなぜか入社後2005年に退職するまで4~5年経理業務を担当したが35年余一貫して財務を担当してきた。(本人:前列中央)

 

商社の財務業務

―仲介業者(後に投資事業の比重が高まる)である商社 にとって金融は重要な機能

―取引高、10兆円超、有利子負債3兆5000億円と膨大な資金、為替を管理する広範な業務である

―具体的には資金調達構造の多様化(直接、間接)、調達先の拡大(国内外の銀行、証券、生保、政府系機関)、利息収支改善、為替取引、資金運用

―リスクは流動性(いわゆる資金繰り)為替変動、金利、価格変動など、舵取りを間違えると厖大な損失を蒙る

―業務は縦割り担当となっているが、筆者は広範な業務を担当した

―勤務地は東京、ニューヨーク(5年)、ロンドン(4年)関係会社(10年)

 

貴重な体験

6a0148c7d6bc93970c017615c9ed5e970c―ブラックマンデー 1987年10月、ロンドン勤務 時代に株 式、債券運用を担当。史上最大の株式暴落(1日で500ドル下落)に遭遇少なからぬ影響を蒙った

―日本の株式市場バブル時(現在の水準の約5倍近い高騰、日経平均38千円超)、中断してた資本市場調達(株式時価発行1億株、転換社債1,000億円発行)を1990年初頭に再開し現場の責任者となった

―日本の株式市場のバブル崩壊後(1990年)中小企業金融を手がける関係会社に出向し、未経験の不良債権処理にあたった。反社会勢力からの回収、貸し金訴訟などを複数抱え裁判所にも出頭前面にたって苦労した

 

伝えたい教訓

社会と個人が乖離していないか。即ち企業が求める人材とは「決断力」「行動力」「主体性」「実践力」。

東外大生が陥りやすいのはスペシャリストになるがゼネラリストになりずらい

 

実践して欲しいこと

常に第一人称で考える癖をつける。
政治、経済、社会その他について人の意見に左右されず「自分ならどうする」という意見をしっかりもつこと。そのためには「過信しては いけないが。裏付けをもった自信を身につける」最近特に問題になる「対人関係が重荷になる」という現象は反駁できない自分に原因がある

基礎的な実践力を身につける。
具体的には金融、為替、法務、総務、経理、人事の知識。企業の財務諸表が理解できる程度の知識は必至、知識に裏付けられた自信がつけば海外での未経験の事業に挑戦する力が付く

 

—-(略歴)—–
1964年イタリア科卒。三井物産入社、財務部。営業経理部などに配属。
1975年米国、1984年英国赴任。1992年金融子会社 2005年退職 (2012年6月現在)
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第10回 海外雄飛を夢見て (柳沢 享)

 

柳沢 享
昭和33年(1958年)英米科卒業

 

小学校6年の時、将来の進路に関わる出来事に遭遇した。戦後間もなく郷里近郊の信州浅間温泉にやってきた進駐軍との出会いである。ジープに乗った米兵は格好よく意外に気さくで、「鬼畜米英とはこういう人種だったのか」と正直驚いた。

異文化体験で英語に興味

6a0148c7d6bc93970c016306b10562970d中学から大学まで英語の学習に力を入れたのは、 この体験の影響である。トヨタに入社後、英語力を一層高めるべく1960年から61年にフルブライト奨学生としてミシガン大学へ留学。当時のフォード、マクナマラ社長(後の国防長官)の特別講義が今でも強く記憶に残っている。

 

欧州駐在でヨーロッパ文化に触れる
63年欧州向け輸出が始まり、初代駐在員としてコペンハーゲンへ赴任。デンマークをベースに輸出市場を開拓した結果、オランダ、フィンランド、英国への輸出が実現。欧州人が話す英語は、母国語の影響が強く表れ、耳が慣れるに従って、英語を聞くだけで国籍の見当がつき面白かった。

激動の北米市場を担当
71年から83年まで激動の北米市場を担当。ニクソン・ショック、ダンピング調査、二度のオイル・ショック、日米自動車摩擦など難題が続発。最大の難題は自動車摩擦で、その対応に苦労。最終的には、日本車の対米輸出自主規制と対米工場進出により解決。GMとの合弁生産提携を実現、これがトヨタ国際化への端緒となった。

カナダ・トヨタ社長として異文化経営を体験
83年から89年までカナダ・トヨタ社長として文化・宗教・価値観などの異なるカナダ人中心の異文化経営を体験。「人間尊重の経営」を理念とし、「3C」を提唱・実践。3Cとは「コミュニケーション」「コンシダレーション」「コーポレーション」をさし、相互の連絡を密にし、相手の立場に立って考え、相互に協力して仕事を進める、というもの。東西6,500キロ、時差4時間半の広大な土地に全国250店の販売店が点在、訪問に時間がかかり、現場重視のトヨタ式経営の実践が難しく、渋る本社を説得して自家用機を購入。社長として理念と3Cを率先して実践。86年、カナダ・トヨタはFinancial Postにより「カナダで働きたいベスト百社」の一社に選ばれた。

商社の経営に転身
カナダは住み心地がよく、退任後は永住も考えていたが、89年、突然帰国命令が出され、グループ内の豊田通商の役員に転出。副社長として退任するまで10年余勤務、車両部門を皮切りに、中枢の金属部門や東京本社を統括。豊田章一郎トヨタ社長から「早く業績を伸ばし、大手商社の一角に食い込むように」と叱咤激励されたが、現実は厳しかった。

退社後は奉仕活動に従事
縁あってトヨタに入社後、専ら海外部門に在籍、国際化の先兵として活動。思い出は尽きないが、若き日のデンマーク駐在、フォード・GMとの提携交渉、及びカナダ駐在が強く記憶に残っている。退社後は数年間、東京経済大学で非常勤講師を務め、今は母校同窓会(本年6月末外語会監事退任)日米協会(本年5月理事就任)などの奉仕活動に従事している。

 

—-(略歴)—–
長野県松本市出身、松本深志高校を経て1958年東外大英米科卒業後、トヨタ自動車入社。1960-61年ミシガン大大学院にフルブライト留学。1963-68年初代欧州駐在員としてデンマーク駐在、1971-83年北米市場を課長・部長として担当。日米自動車摩擦対応の為フォード・GMとの提携交渉に当たり、GMとの合弁提携を実現。1983-89年カナダ・トヨタ社長としてトロントに駐在。1989年豊田通商常務に就任後、専務・副社長を経て99年退社。1999-2002年豊田スチールセンター社長、2002-2004年豊田通商顧問を経て退社。著書にフォード・GMとの交渉を記録した「海外雄飛を胸に」(トヨタ歴史文化部出版)、訳書(共訳)に「成功企業のIT戦略」(日経BP社出版)がある。(2012年6月現在)
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第9回 国際機関で勤務して (野崎正人)

野崎正人
昭和46年(1971年)インドシナ語科卒業

 

1 はじめに
1071年にインドシナ語学科(ベトナム語専攻)を卒業し、警視庁に入庁、35年間勤務(うち、警察庁勤務が6年間)、2006年に退職、現在、新宿にあります「ハイアットリージェンシー東京」(ホテル)で総支配人付として勤務しております。1987年から3年間、フランスのリヨン市に本部を置く国際機関の「国際刑事警察機構」(INTERPOL)で勤務しました。

 

2 国際刑事警察機構(INTERPOL)とは
国際警察刑事機構は1956年に設立され、本部の所在地はフランスのリヨン市です。加盟国は188か国・地域(2010年12月末現在)で、その主な活動は、国際犯罪及び国際犯罪者に関する情報の収集と交換、犯罪対策のための国際会議の開催、逃亡犯罪人の所在発見と国際手配書の発行等です。

日本警察は1952年に加盟し、総会及びアジア地域会議の開催、アジア地域通信網の地域局の設置、事務総局への警察職員の派遣、国際的な捜査協力の実施等を行っております。事務総局は加盟各国から派遣された捜査官、現地フランスで採用された職員で構成されております。私が勤務していた当時、日本人は刑事局長、通信技官と私の3名しかおりませんでした。

3 Specialized Officerとしてスタート

6a0148c7d6bc93970c01761510ff98970c私が赴任した当時、事務総局はパリ郊外の サンクルーにありました。日本から派遣されているからといって、特に日本関連の仕事をするわけではありません。事務総局の一員として、刑事局グループC(盗犯担当)に配属されました。仕事は高級自動車窃盗事件に関する情報交換が主なものでしたが、窃盗事件全般にわたり加盟国国家中央事務局(以下「NCB」という)との情報交換、NCBから要請のあった窃盗犯の犯罪歴の提供や盗犯関連の国際会議への出席などでした。(右は、当時のインターポールの事務総長(ケンダール氏、イギリス人)から私の離任に当たり記念の盾をいただいている写真です。)

 

フランス人警部と一緒の部屋でしたが、仕事に疲れ、ふと窓の外を見ると、眼下にパリ市内、遠くにモンマルトルの丘が見え、よい息抜きになるとともに、パリで仕事をしている実感を味わえました。

 

4 メッセージ・リサーチ・ビューロー(以下「MRB」という)のグループ長に昇進
勤務して1年半位したころ、MRBのグループ長のポストが空き、事務総局内での公募がありました。私はそのポストに応募し、MRBのグループ長に昇進しました。上司はアメリカ人、フランス人の部下が4名できました。

MRBはNCBから昼夜を問わず、無線電報などで送られてくる様々な要請や情報を迅速に処理しなければなりません。私は事務総局で一番最初にメッセージ等を見る立場になりましたが、迅速かつ的確なアクションを採ることを要求されました。

時には、NCBから「麻薬犯が〇〇便に乗って〇〇国に向かったので至急手配して欲しい。」というメッセージが入ってくるわけですから一瞬たりとも気を抜けませんでした。

 

5 世界総会への出席
各国持ち回りで毎年1回、世界総会が開催されます。私が勤務していた1987年はフランスのニースで、1988年はタイのバンコクで、1990年はフランスのリヨンで開催されました。私は日本の代表の一員として、それぞれの総会に出席、各種分科会にも出席しました。リヨンでの開催は新庁舎のお披露目も兼ねており、開会にあたりフランスのミッテラン大統領(当時)が出席、新庁舎の視察も行われました。日本からは警察庁の金澤長官(当時)が出席されました。最終日の会議終了後の懇親会は、新庁舎の開設を祝う各国代表団との交流、久しぶりに会う捜査官との旧交を温めるなど盛会でした。

 

6 事務総局へ派遣されている各国捜査官との交流
午後5時に事務総局での勤務が終わると「溜まり場」の飲み屋に三々五々集まり、交流したり、夫婦単位で家に呼んだり呼ばれたりという食事会、パーテイが盛んでした。

1組、2組のカップルを家に招く、あるいは招かれるということも多かったのですが、パリに勤務していた当時、7月14日のパリ祭の時は、前任者の時代からの伝統で、私が借りているマンションに40名位招き、パーテイを行いました。私が住んでいたマンションの部屋からエッフェル塔やセーヌ川が眼下に見え、打ち上げられた花火を見て楽しめるという絶好のロケーションにあったためです。

 

7 おわりに
警視庁入庁時から国際的に貢献できる仕事をしたいと希望しておりましたが、ICPO本部事務局で勤務する機会を与えられ、国際的に貢献できたものと自負しております。外語大の卒業生が警察の仕事に就くということはイメージしにくいかと思いますが、警視庁から在外公館で勤務したことがある者が既に200名を越えております。また、日本国内に目を向けると外国人犯罪が後を絶たない現状を見ると、語学を活かして活躍できる場が警察にもあるという認識のもと、今後、外語大生の中から国際捜査官として活躍してくれる方が出てくることを心から期待しております。

 

—-(略歴)—–
北海道出身、北海道立小樽潮陵高校卒業。1971年、インドシナ語学科(ベトナム語)卒業、警視庁入庁。捜査第二課(知能犯捜査)、捜査第四課(暴力犯捜査)、機動捜査隊副隊長、刑事指導官、暴力団対策課管理官、警察庁に出向し国際刑事課、国際刑事警察機構へ派遣されるなど主に刑事畑で勤務、地域部理事官で退職、2006年からハイアットリージェンシー東京で総支配人付として勤務中。(2012年6月現在)
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